保健事業の費用対効果を考える


私が起業した2001年頃は、「効果的で効率的な保健事業をしませんか?」という提案に「年配者も含め、まずは健康で生活して頂くこと。満足頂ける医療を受けて頂くこと。お金の話はその次です。」と答える健保の常務理事が少なくありませんでした。
多くの健保が拠出金・納付金に喘いでいる今、「特定健診・特定保健指導は本当に費用対効果が得られているのだろうか?」という声を聞くようになりました。
保険料率を上げざるを得ない状況になり、料率アップの提案をしたら「効果的で効率的な健保経営をしているのか?」と問われるかもしれない思い、考え方が変わってきたのかもしれませんね。
では、「効果的で効率的な健保経営」とはどのようなことなのでしょうか?
このテーマを考えるとき、私はいつも有事の時のトリアージュ(どの方から助けるのかを色分けした札を付けて区別する)を思い出します。現場で多くの死傷者が出ているにも関わらず、そこには限られた医師と薬剤と搬送車両しかないとき、医師は瞬時に「今、関わる人と関わらない人を決める」ことをしなければなりません。
保険料が潤沢に使え、毎年、別途積立金として蓄えられていた頃を救急車がこない日の救命救急室に例えるなら、現在は、今、関わったら助かる人にしか関われないトリアージュ状態と言えるかもしれません。
厚生労働省でも高齢者医療や重症者医療をどのようにすべきかに頭を悩ましています。猛スピードで突入した「超高齢社会」は想像以上の医療費負担を生み出したからです。
全員の人を助けられないなら、どの人から救うのか?今、日本国民はこの難しい選択をしなければなりません。かつて、日野原重明氏が「医師は病に倒れた人を死の淵から救い出そうとする。しかし、その挑戦は人の一生から見ると100%医師の負けである。人は必ず死ぬからである。」と話してくれたことがありました。また、ある医療ジャーナリストは「現代医学は老化を防止し、死を治療しようとしている」とも言いました。
人は「生老病死」という4つの避けることのできない苦を持つのであれば、それを受け入れながら、「今は
どれを選択するのか?」「どれから行うのか?」という選択と優先順位付が最も重要であると私は考えます。
保健事業の費用対効果を考えるには、対象者の年齢や改善の可能性、成功した場合としなかった場合の医療費差額等を考えに入れざるを得ない時代になったように感じるのは私だけでしょうか?

文責:鈴木誠二

 

「まずやってみる」と「慎重にして行わない」ことを検証する


人の行動を止めるのは「不安と迷い」だと言われています。
先日、私が住んでいるマンションの総会がありました。エレベーターの内装が傷んでいるので修繕する事が昨年の総会で可決されたのですが、予算が執行されなかったことに対して質問が出ました。答弁に立った代表の方はこう言いました。「住民の意見を聴いて、皆がこれなら良しとするものにするためのガイドラインを作ろうとして時間がかかっています」と。しかし、彼はスケジュールも述べず、「いろんな考えの方が住んでおられますので、その方々が満足するようなものにしたい」を連呼していました。
これを聴いていて、このロジックでは5年かけても決まらないし、彼は自分の任期のうちには決定できないと思っているとさえ感じました。理由は、それ以外の案件に関しても常に、「誰かから苦情が来たらどうするのですか?」「それが最善であるという証明をどうするのですが?」と100点満点でないのに実施するのはいかがなものかという姿勢だったからです。
これは彼の思考の癖です。未来は不確実な要素が多く読みきれないのが実態です。従って、よりリアルで確実なものとして扱うために「まず、やってみる」事が何よりも重要です。それによって初めて100点満点ではなくても、満点からどの方向にどの程度離れているのか?が現実のものとして把握できるからです。これがつかめれば、データに基づいた話ができるので、関係者に対する説明も容易になり、満点を得るための計画や実行もあっという間に行えます。
ドンピシャの前例がなかったり、不確定要素が含まれる課題解決のポイントは「1日~1週間、本気で情報を集め、考え、やってみる」です。
最初にやって得た結果は、理想とは若干ズレているのが一般的ですので、データに基づいてすぐに修正し、再度行うのです。賞味、2回目の行動の結果が出るまでの時間でほぼ狙い通りの成果が得られるでしょう。
故松下幸之助氏は若い人が提案を持ってくると「やってみなはれ」としか言わなかったそうです。彼は、経験から、「やってみて得られる結果以上に確かなことはない」ことを確信していたからではないかと私は考えます。
私たちは、同意を得るための会議に相当な時間を費やしていますが、多くの人はそれをコストとは認識していません。しかし現実には、同意形成をしている間にも手を打ったら止められる高額保険給付費や前期高齢者納付金が集めた保険料から失われているのです。
全員一致で物事を決めようとする癖のある人はさらに時間がかかって、人数が多ければ多いほど決まらない事が確定してしまいます。何も決まらず、何もしなかったがゆえに失った高額保険給付費や高額な前期高齢者納付金に対する責任はどなたが取るのでしょうか?
私は、決定のプロセスでは選択の対象を可能な限り絞り、①現状を変えることを「チョイスするか?しないか?」②改善策を2つに絞って「どちらをチョイスするか?」③多数決で決めたことは全員ですぐに実行する ことを勧めています。選択の対象の数を最初から増やしてしまうと、お金も時間もかかってしまい、選択に対する迷いのリスクも限りなく増えるからです。従って、私は「膨大な情報の中から、何を根拠にどの情報に絞り込むか?」という能力が複雑系の課題解決では最も重要であるであると考えています。
どちらにしても「最初からの100点満点はない」と思えば気が楽になります。そして、1回目に実施した施策の点数が90点でも70点でも、解答をみて2回目に100点にする確率と時間ははあまり変わらないのですから、しっかり考えられたものであれば、どのような施策でも良いとさえ思っています。
精一杯考え、精一杯行った結果は、一見、慎重を装って何もしない「成さざる罪」よりもはるかに大きい成果や有効な情報をもたらすと考えるからです。

文責:鈴木誠二

「発症予測と浮き釣り」


どこまでが健康でどこからが病気なのか?と問われたら、みなさんはどう答えるでしょうか?
「健康状態は波間に揺れる浮きのようなもの」と表現した人がいます。浮きが浮いていることを「生」とすると、小さな穴から海水が入って海底不深く沈んでいく状態は「死」と言えるかもしれません。
その生と死の間で揺れ動く状態は「体調が良い」「体調が悪い」になるでしょう。波や気圧の影響で若干水面により多くの部分が出ても、逆に水中により多くの部分が沈んだとしても、海水が入り込む状態になければ、最終的には落ち着くべきところに落ち着いて波間で揺れ続けます。
私たちはこの浮きに線を引き、線が水面より沈んだら魚が餌を持っていったと思い、水面より出たら餌が取られたと判断します。しかし、強風が吹いたり、潮の流れが早くなったりしても浮きは上下してしまいます。
素人には区別がつかない荒れた天候でも、毎日釣りをしている漁師には風や潮の流れで浮きが沈んだのか、魚が餌に食いついて沈んだのかは直ぐにわかるそうです。
何ミリ動いたかではなく、どのような状況でどんな動き方をしたかで判断しているようです。まさに暗黙知であり、匠の世界の話に聞こえます。
この話を、健康状態を健診データで判断する現代医学に置き換えて考えてみましょう。
健康診断では測定項目ごとに「基準値」があります。あたかも浮きに引かれる数本の線のようです。
基準値よりも高いか低いかで一喜一憂するのも、外的要因でその値が上下するのも浮き釣りに似ています。
そうすると、海中で魚が餌に食いついているかどうか(体内で何か病的な事が起こっているかどうか)は、その場の状況と動き方で判断するのがよさそうであることに気づきます。
医学は時に「サイエンス&アート」と称される事がありますが、その方が置かれている状況を総合的に判断し、データの動きから体内で何が起こっているのかを推定する発症予測は、まさに匠の世界の話であると感じます。
「体内で起こっていることを想像して、置かれている状況を加味しながらデータを動的に読む」は発症予測の基本かもしれません。
 

文責:株式会社ウェル・ビーイング 鈴木誠二