日野原重明先生への追悼文


昨日、日野原重明先生が105歳の定命(この言葉は、日野原先生とも親交の深かった瀬戸内寂聴先生が用いられる言葉です)を全うされました。

●出会いはたった1枚のFax
私が日野原先生にお会いしたのは、先生が89歳の2001年の2月末だったと記憶しています。日経ビジネス2月19日号の編集長インタビューに「健康保険に依存し続けると国は亡ぶ」というセンセーショナルなタイトルで、「健康保険があるが故にそれに依存して、自己責任で予防しようという意識が出てこない。それでは日本の医療保険制度は持ちません。」「診療報酬制度の中で時間が評価されていないことと、無駄な検査が多いことも問題です。」と明確に日本の医療制度の課題を指摘しておられました。
当時、私は米国から帰国し、アメリカ人から指摘された「日本の医療制度はおかしい。このままでは日本の医療経済は破綻する。」と言われたことを、医療保険者を中心に個人的に検証していた時でした。
日野原先生の主張は、まさに「我が意を得たり」でした。記事を読んだ翌日、先生に、お会いしたい趣旨を簡単に書き留めた1枚のFaxをお送りしました。
5日後、日野原先生の病院秘書(日野原先生は私設秘書を数人抱えておられましたが、連絡をくださったのは聖路加国際病院の理事長秘書でした)から、電話が入り「日野原先生がお会いしたいそうです。しかし、スケジュールがタイトなので、お話は移動する車の中になりますので、ご承知置き下さい。」との内容でした。
約束の日は、東京としては珍しい大雪の日で、それだけでもその日が「特別な日」になるような予感を感じました。
聖路加病院から虎ノ門の会議場に向かう車に同乗させて頂き、15分間、作成してきた資料を基に私の考えを述べさせて頂きました。先生は寝入ったかのように(後から、これは先生の「話を聴くスタイル」であることがわかりました)聞いておられましたが、私の話が終わるとすぐに「このことは今のT社(当時私が勤務していた医薬品・医療機器メーカー)でやるの?」と質問してこられました。私は「いいえ。」とだけ申し上げると、先生は全てを察したかのように「じゃあ、私が応援するから頑張ってごらんなさい。」と言って下さいました。

●生活習慣病予防対策プロジェクト
その後、弊社の顧問を引き受けて下さり、新たに立ち上げた「生活習慣病予防対策プロジェクト」の会長も快諾して下さいました。そればかりか、会社を立ち上げたばかりで、予算が厳しいと申し上げると、聖路加国際病院の中にある「トイスラーホール」を破格の料金で使用できるよう手を打ってくださいました(後からわかったのですが、部外者で使用するのは初めてで、病院の事務長から「前例がないのでいくらにしたらいいのか困っています」と言われたほどです)。

●自分のやるべきこと
先生からはたくさんのことを教えて頂きました。その中で特に印象に残っているのは「周りの評価」に対する考え方です。先生は「周りの評価なんて、私には関係がない。良い評価も、悪い評価も勝手にすればいい。私がやるべきことは、100年先、200年先のあるべき日本の医療や平和や教育を自分の信念に基づいてやり始めることだ。それは自分が生きているうちに完結しないかもしれないが、そんなこともどうでもよいことだ。円をイメージして描き始めれば、それが途中であったとしても、次の世代が、それまでの弧に従って円を描き続ける。だから、100年後、200年後を見据えて、私が円を描き始めることで、その円の完成は保証されたようなものである。この行為に外野の評価など何の影響も与えない。大事なのは、自分の思いの強さ(情熱)のみだ。」と熱く話をしてく出さったのを思い出します。

●お金に色はついていない
先生は将来の高齢化社会を見越して、いち早くケア付きマンションを聖路加国際病院と直結する形で創るという壮大な構想を実現されました。これには莫大な費用がかかりましたが、その際に笹川財団からの支援を受けたことで、日野原先生を良く思わない人から中傷されることがありました。90歳を過ぎても聖路加国際病院の現役の理事長をしておられた先生の経済観念は、今振り返っても、大手企業の経営者に匹敵するのもがあったと感じます。ある時、先生は聖路加ガーデンを創られた際の思い出として「この、試みとしてのケア付きマンションを創るにはお金が必要でした。ある人は『それはどこから出たお金何か?』と言ってきたりしましたが、お金に色はついていないので、『ルールに従って集めたお金なので、区別がつかない』と相手にしませんでした。お金がないとあの試みはできなかった。」と言っておられたのが印象的でした。

●人に対する接し方
私は今の会社を起業する前、医薬品・医療機器メーカーの研究所で研究をしていました。しかし、分野が違ったので、失礼ながら、日経ビジネスの記事を読むまで日野原先生を全く知りませんでした。三度目の先生との面談の時、私の前には大手スポーツメーカーの社長・常務・部長の3人が面談の順番を待っていました。大挙して面談に来ているので、重要な話で長くなるかなと思っていると、中から先生が秘書に指示をする声が3分もしないうちに聞こえました。「ウェル・ビーイングさんが待っておられるので、すぐに呼んでください。」私は驚きました。会社を1人で立ち上げたばかりで、これからどうなるかわからないのに・・・。
逆のことも経験しました。第1回生活習慣予防対策プロジェクトの終了後、聖路加ガーデンの最上階で懇親会を行っていた時のことです。パーティー会場から先生の姿が見えなくなったので探していると、先生は会場の外で授業の質問に来た聖路加看護大の学生と話をしておられました。発足式で、名だたる先生方が来ておられる最中、30分間も席を外してです。先生にとってはこの1人の学生の方が大事だったのでしょう。
先生はオスラーを師と仰ぎ、オスラー研究の第一人者でもありました。しかし、先生がオスラーと会ったのは戦後間もない頃の聖路加病院の図書室だったそうです。オスラーは既にこの世の人ではなくなっていましたが、日野原先生にとっては、自分がお手本とする師匠は生きていようがいまいが関係がないということなのでしょう。役職や肩書どころか老若男女さえ問わず、さらには生きているかどうかも問わない日野原先生の人への接し方には、深く考えさせられました。

●10年先のスケジュール
日野原先生のスケジュール帳には10年先もびっしりと予定が入っていました。あるとき、先生は笑いながら「もうその頃には私はこの世にいないかもしれないのに、私はその約束を受けるのです。自分の人生がどこで終わるかなど誰にも分りません。しかし、人は死ぬその時まで生きているのです。ですから、私のスケジュール帳には終わりがないので、予定がどんどん入ります。人生は、ただ生きるのではなく、より良く生ききることが大事です。」と。105歳で亡くなられた日野原先生は、その言葉通り、自分の人生を思い通りに生ききった人だったと感じます。

日野原重明先生、16年2ヶ月の間、名もない私を応援して下さり、ありがとうございました。

2017年7月19日
株式会社ウェル・ビーイング 代表取締役 鈴木誠二 拝